荒野の先に

またしても少し時間があいてしまいました。申し訳ない。実はロンドンへと帰っていました。1週間ほどの短い滞在で、その間もすることが沢山あって一息つく間もなく帰路についた感じ。昨夜10時過ぎに到着。今回は行きも帰りも電車での旅。僕のアパートから、ミニの家までは片道12時間。時間にすると日本へ飛行機で帰れる時間だけど、本を読んだり、音楽を聴いて楽しく道中を過ごせたというのが本音。電車の旅もいいものです。

僕がドイツに住んで1年。よく聞かれる質問で、「イギリスの生活が恋しくなることはない?」っていうのがあるのですが、これが全く。多分それはドイツが僕にとって4番目に住む国というのがかかわっているように思います。今までにおすんだ国々、それぞれにいいところがあるし悪いところがある。特に悪いところに遭遇すると、”日本ではこうなのに、、、、。”とか、”イギリスではこんなんじゃなかった!!”みたいな愚痴ともいえない嘆きみたいなことをおもうんですよね。けどこれってよく考えればナンセンス。だって、僕はその国にいるのだから、良いことにしろ、悪いことにしろその中で自分が生活をしなくちゃいけないわけで。それだったら、そんな嘆きをするよりも今ある状態を受け入れてそこから何かいいことを探したほうが自分の精神的にも楽。それだからか普段ドイツにいる時に日本の事やイギリスの生活を思い出すことって全くないんですよね、面白いことに。

だけど、ロンドンの駅について、どの道を行けばいいのか、近道をどのようにできるのかというのを体が勝手に判断するから不思議。今まで眠っていたロンドン時代の僕が蘇ってそんな気分。ロンドン時代の僕が蘇ったものだから、ドイツの僕は全くをもって影を潜めてました。

それでもね、違和感というものを感じるんですね。不思議と。ロンドンを離れてたった1年。それなのに、このロンドンという街のなかにいる自分が少しだけ浮いている感じがする。それはたぶん、ロンドン生活に僕の属する場所がないということが大きく関わっているようにも思います。前は仕事があったし、朝のラッシュ時の中を通勤していたのに、今ではそのラッシュ時を傍観者として見て、あの頃だったらどの信号が青になって、次はこの信号と効率よく歩くことだけを考えていた思考回路も今は持たない。10年間住んで、イギリスがあんなにも身近にあったはずなのに、そこには溝がくっきりとあって。その溝は幅は広くはないのに、だけど深さはそこが見えないほどに深い。

帰りの電車でロンドンを出た時に感じたのは、僕の居場所はもうロンドンにはないなっていうこと。これは言葉にするのがとても難しいことなんだけど、10年間過ごした僕という存在はあの中にはもういなかったなってことなんですよね。ドイツという薄い粘膜のオブラートに包まれてロンドンの人々や生活を見ている、そしてそこに存在をしている感じ。「また、ひとりになちゃったな。」っていう思いが心を通り抜けて、気が付くと一粒の涙が。

勿論、ドイツにはユリ君が待っていてくれて、イギリスには第2の家族ともいえるミニがいて、友達もいて、アメリカの友人や日本の家族、友達もいる。そのすべての国が僕の今を、形成しているのはものすごく感じるし、その経験を与えてくれたありがたいなって思うんです。だけどね、風の強い、雨雲になりそうな荒野をひとりでまた歩くことになったなって電車の中で感じたんですよね、強く。自分だけの道を好きなように進んでいる僕の人生。その一人旅は時に孤独を強く感じるもので、その再確認の旅でもあったように今は思えています。

午後10時過ぎにドイツの駅に着くとユリ君が迎えに来てくれていました。途中でお腹がすいているとメッセージを書いたためか、トーストにチーズとハムの入ったサンドイッチがナプキンにくるまれておいてあって、かわいいなって。

多分みんな誰しもが自分なりの荒野をもっていてそこを苦しみながら、もがきながら生きているだけど、その時にふと心が、からだが温かくなれる思いや感情があると言うことは全く心強いことで。そう思うと、自分の風が吹きすさぶ新しい荒野の旅も悪くはないのかもなって思います。

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