人生の長さと、その質量

ぼそぼそと心細い雨音が屋根にかすかに響いていて、その向こうに広がる空は空虚のような白いグレーで寂しげ。冬の地に曜日の朝にぴったりなのかもしれないけれど、一人でいたら気が滅入ってしまいそうな感じがどうしても苦手。だから、妙にアッパーテンポな音楽を部屋に満たして気を紛らわせてみたり。そんな日曜日の始まり。

若い10代や20代の時には感じなかったことって、死という存在。

それが30代になって身近に感じるようになってくるのは何か不思議。その存在は日々の生活の中ではほぼ遠くにあってそこまで気をつけにのだけど、ふと気がつくと突然にその存在が真横にいて、不意に肩を組まれていたりするから逆にびっくりしてしまう。”え、そんな近くにいたの?って。

最初は自分が子供の頃から知っている芸能人が、病気であったり老衰であったりで亡くなることが多くて、”そっか、もうそんな年だったんだね。けど、もうテレビで見れないと思うと、残念だな。”ってというもので。

すると、今度は僕の祖父母がだんだんと年を取ってきて、みんなが80代を生き、だけど時に小さいものから大きなものまで病気を患って、それでも毎日毎日を生きていく。そんな祖母に言わせれば、”80になると、今までより死という存在が身近になって、それを連れ添いながら生きている。”感じなのだそう。

そして最近は、知人の人々の大病や、死。僕よりも10か、20ぐらいしか離れていない人が実際に体調を壊したり、病気の治療をしたり。しかも、津波が押し寄せるように一気に流れ込むその情報に押し流されそうになる自分がいたり。死というものは絶対に逃れられないもので、人間の定めとわかっているのだけれど、いざ目の前で”挨拶”をされると頭の中が真っ白になってしまう。真っ白というか、今日の空のような白い感じを混ぜたグレーで、その温度はものすごく冷たい。

今話題の映画、”この世界の片隅に”。ユーチューブーで予告版を見てみたりすると、ものすごく見てみたくなる作品。当たり前に生きていた人々が突然に戦争というものを経験して、だけど普段と変わらない暮らしがそこにある、それをきっちりと描いた映画と賞賛されている。その映画の舞台になっているのが第2次世界大戦には東洋1の軍港と言われた広島県呉市。

ここに住む祖父が最近調子が悪いのだとか。この祖父とは僕の35年の人生で2度しか会ったことがなく、”おじいちゃん”と素直に言っていいものか躊躇う感じもするんです。特に彼自身が自分の感情に素直になるのが苦手な部分もあるようで、大きな手を広げて”おじいちゃんだよ。”って感じでアプローチもないので僕も時に敬語だったり、そうでなかったりと距離感の難しさを感じることも。

そんなおじいちゃんが、もしかすれば向こうの世界に旅立つかもしれない。そんな時に僕の中にこみ上げる想いはなんとも複雑です。

人の命、長かったり短かったり、途中で病気をしたり、別れがあったり、失恋したり、苦しくて涙も出ないことがある、その中でも最後は、”あー。面白い人生だったな。”そう思って次の旅を始めれたらなって思います。

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